第七観測所

SFとかゲームの文章が多め。映画も観ます。

めまい

ときどき、現代の技術の進歩やそれがもたらした生活の変化について考えて、ちょっとめまいがすることがある。こんなに便利になっていいものだろうかと。

 

携帯電話というものは、自分が大学生になるまでは一般的ではなかった。ポケットベルを使う人がようやく増えてきたぐらいだった。電子メールなんかもちろんない。せいぜいが留守番電話にメッセージを残すくらいだ。あの頃は、どこかで待ち合わせをするのも大変だった。決めた時間に遅れそうになってもそれを相手に伝える手段がなくて、だから大抵の人は時間をきっちり守れるよう努力していたように思う。それでもすれ違いになることもたまにあって、テレビドラマや映画ではそういったシーンがストーリー上よく使われていたりした。雑誌には、「文通コーナー」があった。手紙のやり取りをして、お互いが日々思うことや共通の趣味などを伝え合うのだ。始めるには、文通相手を募集している人の連絡先(住所が載っている)に手紙を送ればいい。

 

あの頃から、感覚としてはそんなに時間がたっていないように思う。しかし世界はすっかり変わってしまった。ほとんどの人が自分の電話機を持っている。番号さえ知っていれば24時間誰とでも連絡が取れるし、逆に言えばいつどこにいてもいきなり電話がかかってくる。そのときの自分の都合には関係なく。電子メールもやってくる。こちらは一斉送信もできるから、一度にたくさんの人と連絡を取ることができる。またインターネットのブラウザを開けば、一歩も動かないで世界中の情報にアクセスすることができるし、買い物もできるし、旅行の予約もできる。

携帯電話がスマートフォンにとってかわられると、変化はさらに大きくなった。SNSでほかの人と24時間つながっていられる。出来事やつぶやきをアップロードすれば何らかの反応がリアルタイムであって、それに返事をしたりと皆いそがしい。

ここまで書いたことは、あくまで変化の一部分だ。機器やサービスを使いこなせていない俺には、そのすべてを書くことがとうていできない。時代に取り残されてしまったという疲れを感じる。こんな俺でも明日の朝になれば会社に行ってPCの電源を入れ、メールで他の部署や支店で勤務する同僚とメールでやり取りして業務に取り組み、昼休みにはスマートフォンで明日の天気や話題のニュースを見たりしているが、これもいつまで続けられるだろうかと思う。

少しくらいなら、時間が巻き戻ってもかまわないような気がふっとするのは俺だけなのだろうか。

 

まとまりのない記事になった。また、書き直すことがあるかもしれない。

 

 

 

やってみたいことリスト

先日会社の人と「人生で一回はしておきたいことリスト」の話になった。その人の場合、「オーロラを生で見る」「夜の砂漠で寝転んでみる」とかわりとスケールが大きめなことをリストに挙げていた。

少しちがうが、自分も一応「今年中にやってみたいことリスト100」というものを作っている。「食べる」「仕事」「休日を楽しむ」などジャンルを10個決めて、それぞれについて10個考えて書いてみた。書いたのがちょうど1か月前だったので、どれくらい達成できているのか見直してみる。

うーん、

  • 映画を映画館で観る
  • 買ってきたまま積んでいるBlu-rayを観る
  • 家計簿をつけ始める
  • 友人の誕生日にはメッセージを送る

くらいしかできていない。どちらかというとささいな目標をリストに入れたつもりなのだが、まあ毎日の習慣を改善するようなものは1か月では「やってみた」とはいいづらい。まあ月に一度は見直しながら、なんとかしていきたいところである。

今のところ自分には会社の人が挙げたようなスケールの大きな「やりたいこと」は思いつかない。それだけ発想が狭く小さいのだと思う。最初のうちはしょうがないから、小さなことから達成していっていつか大きな夢を持ち、かなえてみたい。

 

 

 

 

 

 

超能力者にあこがれて

思い返すと、俺とSFとの出会いはやはり中学生の頃だったと思う。特に象徴的な出来事があったわけではない。気が付いたら、眉村卓の文庫を片っ端から読んでいる自分がいたというだけだ。たしかSF系の本は出版元に関係なく近い位置に並べられていたので、星新一筒井康隆小松左京をたまに手に取ることもあった。しかしいつの間にか、また眉村卓のわりと不安な結末をむかえがちな作品に引き込まれていくのだった。

眉村卓の代表作となるとやはり『司政官』に代表される司政官ものか、何度か映像化もされた『ねらわれた学園』『時の旅人』などのジュブナイルな作品群になるのだろう。もちろんそれらも好きで何度も読んでいるのだが、個人的な思い出と強くつながっているのは『不定期エスパー』だったりする。

 

不定期エスパー〈1〉護衛員イシター・ロウ (徳間文庫)

不定期エスパー〈1〉護衛員イシター・ロウ (徳間文庫)

 

 

不安定な超能力者である主人公が戦いながら成長していく物語、というのは短くまとめすぎかと思うが、何度となく苦しい状況に追い込まれてそれでも諦めない主人公イシター・ロウの姿にあこがれを、かっこよさを感じていた。性格的には真面目でどちらかというと融通が利かないほうだが、意志は強く頼りになるいいやつなのである。

この手の物語では主人公は強くヒーロー的な扱いを受けてとかく目立つ存在になりがちだが、『不定期エスパー』の場合むしろ逆に目立たないその他大勢の立場で、そのなかで自分の役割を果たしていくという地味さがある。この地味さはストーリーが進んでも一貫していて、だがしかし退屈さにはつながっていない。一人の青年が揺れ動く歴史の中で翻弄されつつも、自分の力で足を踏み出して未来を開いていく過程を確かめることができる。

先にノベルズ版が出されていたようだが、個人的には書き下ろしの前書きや後書きを読める文庫版をお勧めしたい。表紙のイラストのテイストも、こちらのほうがしっくりくる気がする。

 

自分の好きなものでもどこがどう好きなのかを伝えるのは難しい。思い入れが強ければなおさらのことと感じる。単純に「がんばって、イシターロウ!」と書けば上の文章も一行ですんだかもしれない。いつかあらためて再紹介したいと思う。

 

 

俺とさまよえる方向性再び

うーん、このブログはどこに向かっているのだろうか。前回はですます調にもしてみたが、全体の中では違和感のあるエントリになってしまった気がするし、どうにも一貫性というものがない。いっそ「一貫性のないことを一貫させていく」というスタイルのブログを目指そうかとも考えたりしたが、それも苦労する割に誰も幸せにならないような気がしたのでやめることにした。このブログは『第七観測所』という名前だが、今のところ観測どころではない感じである。まあ仕方ない。こうして迷いながら進んでいくことにしよう。かっこよい姿とはお世辞にも言えないが。

と、これで今日を終わらせるのもなんなのでゲームの話でも書こう。唐突だが、俺がゲームメーカーの中で一番好きなのはナムコである。ナムコバンダイではない。まだゲーム業界に夢と希望があふれていたころ、輝いていたナムコである。マッピーとかゼビウスとかは今でも効果音をメールの着信音にするくらい好きだ。あの時期のポップでセンスの良いゲームデザインと音楽のマッチ具合は大したものだと思う。『ボスコニアン』や『グロブダー』、『バラデューク』など世界観が変わっても「ナムコらしさ」というのは確実にあって、小学生の俺でさえ「これもナムコのゲームか、やってみよう」と思うくらいの安定したクオリティーを保っていた。過去の自社のキャラクターを大事にするところも俺が好きなところだった。ゲームを売ることだけではなく、ゲームをする人たちの気持ちも考えてくれるメーカーだなあというのがナムコの印象だ。

こうして書くとレトロゲームだけが好きなのかと言われるかもしれないが、プレイステーション以降のソフトもけっこう遊んだ。『リッジレーサー』はプレステ本体と同時に買ってやりこんだし、『エースコンバット』シリーズも『ミスタードリラー』も『塊魂』もかなりやった。合間に『ナムコミュージアム』もプレイして昔を懐かしみつつ、おっかなびっくりで『アイドルマスター』もプレイしてそれなりにはまった。『テイルズオブ』シリーズはエターニアくらいまでしかついていけなかったが。

これからのナムコは・・・まあナムコバンダイになって「らしさ」はだいぶ薄れた気もするからそこまで期待はしていないけれど、スイッチとか新しいゲームハードも発売される時代はまだ続いているし、また新しくてちょっと変わっていて面白いゲームを作ってくれることを期待してやまない。いや、『リッジレーサー』の新作でもいいんだけど。『アブノーマルチェック』のリメイクでもいいんだけど・・・。

 

 

下手の横好きシューティング

まさにタイトル通りなんですが、シューティングゲームは好きではあるんだけれど得意ではないです。つきつめるとパターンの暗記になるとかそういうことは考えないで、ただ敵弾をかわし、撃墜することを楽しんでいたい。だからスコアも伸びず、クリアできたソフトもないんですけど。気が付けば、現在我が家にあるシューティングゲームって、『エースコンバット』シリーズくらい(ちょっと強引?)。買ってみるもののクリアできずに売ってしまうのを繰り返してきました。

でもなぜか、今日は『ストライカーズ1945Ⅱ』をなんとなくPSストアで買ってプレイしてました。難易度をイージーにして疾風を選択、にもかかわらず4面くらいでゲームオーバー。そうだ、俺は昔このゲームをなんとか一周しようとして最終面で挫折してたんだっけ。昔と変わらない腕前。まあ今回はダウンロード版だし、PS3本体がどうにかならない限りずっと一緒。気を長く持って遊んでいこうと思います。

 

 

 

「考えていることと(以下略)」現象

今日は休日。出かけないと損な気がしたので、映画を観に行ってきた。その感想を語りたい・・・とも思ったのだが、上映後に場内が明るくなるとまっさきに席を立つ自分がいたのでこれは多分書くほどでもないのだろうなあ。原作付き(今回は小説だったが)の映画は、どうしても原作を読んで自分が持ったイメージと映像が対立することがあるので、これが「ああこんな映像になるんだ」と感心できればいいのだけれど逆だとストレスが溜まっていく。あと終わり方も、個人的には観た人に判断をゆだねるようなタイプのものよりはバーン!と話を締めくくってしまうほうが好ましい。

ここまで思うにまかせて書いてきたが、あれ?なんか実際に感じたことと書いていることにズレが生じているというか、思っていることが出来上がっていく文章に裏切られる現象が発生しているようだ。今日観た映画は、べつに上に書いたほど悪い映像化ではなかったのだが・・・。描写もむしろ「ああ書かれていた人物(機械なども)のデザインはこんな風だと納得いくなあ」というものが多かったのに。これはあれか、書きやすいような内容に思考が改変された結果なのか。「考えているはずのことと、実際に文章化されたものの方向性がむしろ逆」現象(長い)の原因を究明する必要がありそうだが、緊急性は高いようでそうでもない気もする。ので時間がかかるものと思われる。

最後に書くのもなんですが、今日観たのは『虐殺器官』でした。内容と関係ないところの感想としては、「画面の四隅が暗いシーンが多めだったような気がする」というところでしょうか。あとなんだろう、どのシーンがというのは指摘しづらいんですが、どうも表現に制限をかけられているというか、いろいろな方面の規制を意識した部分多くないかね?と思いました。というのは内容に関係あるな。R-15って枠に入っているから仕方ないのかもしれませんが・・・。なぜこの段落だけですます調なのかというと、特に意味はないです。これも思考が文章に裏切られているんだと思います。

 

俺と迷宮の中で

 

先月始めた『世界樹の迷宮Ⅴ』だが、ようやく第1層のクリアが見えてきた。基本的にRPGは必ず勝てるレベルになるまで戦いを挑まないスタイルなので、もうすこし時間はかかると思うが今週中には次の階層へ行けるだろう。そんな見通しが立つほど気が付けば『世界樹の迷宮』シリーズはプレイしてきたわけだが、前作から続けて遊んでいるせいかどうしてもあれやこれや比べてしまって純粋に楽しめていないような気がしている。思えば、というか3DS本体に記録されているプレイ時間を見てみれば一番長く遊んだのはⅡなのだ。もう一度挑もうとは思わないが、あの厳しめのバランスが自分にとってよかったのかもしれない。

今回の世界樹は料理とか、ユニオンスキルとか、単純なキー操作の部分とかでも「もうひとつだな~」と感じる部分があって、そこがいまいちのめりこめていない理由なんだろうと思う。あと、せっかく説明書があるのだからもう少し参照しやすくしたほうがプレイヤーのはず。プレイ中いつでもどこでも読める!って感じにしてほしかった。説明を繰り返さなくても理解できるほどシステムを作りこむというのは難しいだろうから、せめて読みやすさは追及してほしい。そういえばゲームソフトのオンラインマニュアルで読み応えを感じた経験は今のところないので、メーカーさんには頑張ってほしいところである。紙の説明書ならば『俺の屍を越えてゆけ』は読み物としても面白かったし、『ベルデセルバ戦記』とか設定資料がおまけで載っているゲームもよかった。ゲームシステムとシステムの操作性とデザインを総合的にうまく組み合わせたなと感じたのは『フロントミッション オルタナティブ』だが、これは(プレイ人口が少ないので)共感してくれる人はあまりいないのだろうなあ。

ここまで書くのに予想外に時間をとってしまった。今日はもう『世界樹の迷宮』を遊ぶ時間はないかもしれない。今のところは不満足のもやもやをどこかにかかえながら迷宮を探索しているが、次の階層ではもう少し違った感想を持つこともあるだろう。そのときはまたここに今日の続きを書いてみようと思う。