第七観測所

SFとかゲームの文章が多め。映画も観ます。

俺と最後のフロンティア

ちょっと前のことであるが、今年もiPhoneの新型が発売されて多くの人々が買い求めるべく店頭に並んだらしい。iPhoneでなくとも携帯電話各社のホームページを見るまでもなく、毎シーズン新しい端末が発売されて、独自の機能やデザインを競っている。

 

違う、俺がしたいのはそういう話ではない。

 

あくまでも個人的な印象なのだが、限りある地球の資源がどうも内向きの需要に応えてズルズルと消費されていっているような気がする。そりゃあ毎日の豊かな暮らしには、新しいスマホも自動掃除機も必要かもしれない。でも21世紀といえば未来、未来といえば宇宙ではなかったのか。そのレアメタル、その新開発の素材、もっと宇宙開発に使わないか。

 

スペースシャトルも引退してしまったし、国際宇宙ステーションの規模は拡張される見込みがないし、一時は月や火星に探査機を送る計画を立てていたインドや中国もその後音沙汰を聞かないしと宇宙開発は現在わりかし厳しい局面にある。でも俺は思うのよ、この世紀が、この世紀前半が人類が地球を本格的に巣立てるかどうかのラストチャンスではないかって。こんな時代だからこそ、壮大なビジョンを持って宇宙開発時代にもう一度舵を切ってもらいたいと。何があるか分からない世界だが、何があるか分からない世界だからこそいいんじゃないか。もっとみんな、目指そうぜ宇宙!

 

まずはささやかなことから。世界各地のロケット発射場は、今後「宇宙港」と呼ぶこと!OK?

 

 

俺と今日は(も)とりとめもなく

文章を書くのは多分、好きなんだと思う。思うのだが、こういう何を書いてもいい場所でも書き続けるのは苦手。「考えすぎ」とか言われることが多いのだが、そんなに完成度とかにこだわっているわけではなく。うーん、原因は何だろうか。

よく分からなくなってきたので、今日は久しぶりでもあるし、とりとめもなく書いてみる。いつもと変わりないかもしれないが。

 

最近あまり本を読まなくなってきて、これは書く意欲と関係あるだろうか。インプットが多いほうがアウトプットも増えるとか。「ない袖は振れぬ」というし?ネタがないと何も書けない気もするので関係ありそうな気もするがそうでない気もする。人それぞれに書けない原因はあるのかもしれない、とも思うがどうなのか!聞く人もなし。

 

とにもかくにも、このブログの通算PVは62である。ここまで30もエントリ(個人的にはしっくりこない単位だ)を書いていないが、のべ62人も自分の文章を読んだ人がいるらしいというのは実は大したことなのではないかと思ったりもしているのだが、過大評価だろうか。嬉しいというよりも「俺の埋めた地雷を踏んだ人がこんなに…」という感慨めいたものがわいてくる。いいのか。

 

ここらへんにきて筆が載ってきたということもなく、主題も落ちもなくこのエントリは終わってしまうのだが、もしもこの文章を読む人がいるのならば「次回はそれほど落胆させないのでまた来てくださいね」と伝えたい。なんだこれは。

 

 

 

歴史の可能性の中で

ラジアントヒストリア」をクリアしたので、そのことを書こうと思ったのだが、いざとなると言葉が頭の中に湧いてこないことに気が付いた。シナリオ・システム・音楽など印象に残るものが多かったのだが・・・。うーん。

 

ラジアントヒストリア(特典なし)

ラジアントヒストリア(特典なし)

 

 

 戦闘に関する不満というほどではないがもやもやが、感想を書きづらい原因だと思う。具体的には、まずシンボルエンカウント方式をとっているのだが敵が自分を見つけると結構なスピードで寄ってくる。背後を取られるとバックアタックとなり先制を取られるので、それを回避するために画面内を走り回るのがわりと面倒だ。

 

それと基本的に相手のほうが数的に多いので、戦闘シーンでも相手の行動を見ている時間が比較的長いのも疲れた。一般的にRPGでは戦闘シーンがプレイ時間のかなりの割合を占めるので、そこで面倒だったりストレスを感じるとちょっと褒めにくい。

 

とはいえ、時間移動を利用して歴史を変えていくというシナリオはほかのゲームではなかなか見ないし、RPGでよくある「ここで『はい』を選ばなかったらどうなるのか」といった疑問の先を見せてくれるのは楽しかった。

 

今回も淡白な感想になってしまったが、今の自分にはこれくらいしか書けないようだ。次は「世界樹の迷宮Ⅴ」の探索に戻ろう。こちらはキャラが育ってだんだん楽しくなってきたところだ。

 

めまい

ときどき、現代の技術の進歩やそれがもたらした生活の変化について考えて、ちょっとめまいがすることがある。こんなに便利になっていいものだろうかと。

 

携帯電話というものは、自分が大学生になるまでは一般的ではなかった。ポケットベルを使う人がようやく増えてきたぐらいだった。電子メールなんかもちろんない。せいぜいが留守番電話にメッセージを残すくらいだ。あの頃は、どこかで待ち合わせをするのも大変だった。決めた時間に遅れそうになってもそれを相手に伝える手段がなくて、だから大抵の人は時間をきっちり守れるよう努力していたように思う。それでもすれ違いになることもたまにあって、テレビドラマや映画ではそういったシーンがストーリー上よく使われていたりした。雑誌には、「文通コーナー」があった。手紙のやり取りをして、お互いが日々思うことや共通の趣味などを伝え合うのだ。始めるには、文通相手を募集している人の連絡先(住所が載っている)に手紙を送ればいい。

 

あの頃から、感覚としてはそんなに時間がたっていないように思う。しかし世界はすっかり変わってしまった。ほとんどの人が自分の電話機を持っている。番号さえ知っていれば24時間誰とでも連絡が取れるし、逆に言えばいつどこにいてもいきなり電話がかかってくる。そのときの自分の都合には関係なく。電子メールもやってくる。こちらは一斉送信もできるから、一度にたくさんの人と連絡を取ることができる。またインターネットのブラウザを開けば、一歩も動かないで世界中の情報にアクセスすることができるし、買い物もできるし、旅行の予約もできる。

携帯電話がスマートフォンにとってかわられると、変化はさらに大きくなった。SNSでほかの人と24時間つながっていられる。出来事やつぶやきをアップロードすれば何らかの反応がリアルタイムであって、それに返事をしたりと皆いそがしい。

ここまで書いたことは、あくまで変化の一部分だ。機器やサービスを使いこなせていない俺には、そのすべてを書くことがとうていできない。時代に取り残されてしまったという疲れを感じる。こんな俺でも明日の朝になれば会社に行ってPCの電源を入れ、メールで他の部署や支店で勤務する同僚とメールでやり取りして業務に取り組み、昼休みにはスマートフォンで明日の天気や話題のニュースを見たりしているが、これもいつまで続けられるだろうかと思う。

少しくらいなら、時間が巻き戻ってもかまわないような気がふっとするのは俺だけなのだろうか。

 

まとまりのない記事になった。また、書き直すことがあるかもしれない。

 

 

 

やってみたいことリスト

先日会社の人と「人生で一回はしておきたいことリスト」の話になった。その人の場合、「オーロラを生で見る」「夜の砂漠で寝転んでみる」とかわりとスケールが大きめなことをリストに挙げていた。

少しちがうが、自分も一応「今年中にやってみたいことリスト100」というものを作っている。「食べる」「仕事」「休日を楽しむ」などジャンルを10個決めて、それぞれについて10個考えて書いてみた。書いたのがちょうど1か月前だったので、どれくらい達成できているのか見直してみる。

うーん、

  • 映画を映画館で観る
  • 買ってきたまま積んでいるBlu-rayを観る
  • 家計簿をつけ始める
  • 友人の誕生日にはメッセージを送る

くらいしかできていない。どちらかというとささいな目標をリストに入れたつもりなのだが、まあ毎日の習慣を改善するようなものは1か月では「やってみた」とはいいづらい。まあ月に一度は見直しながら、なんとかしていきたいところである。

今のところ自分には会社の人が挙げたようなスケールの大きな「やりたいこと」は思いつかない。それだけ発想が狭く小さいのだと思う。最初のうちはしょうがないから、小さなことから達成していっていつか大きな夢を持ち、かなえてみたい。

 

 

 

 

 

 

超能力者にあこがれて

思い返すと、俺とSFとの出会いはやはり中学生の頃だったと思う。特に象徴的な出来事があったわけではない。気が付いたら、眉村卓の文庫を片っ端から読んでいる自分がいたというだけだ。たしかSF系の本は出版元に関係なく近い位置に並べられていたので、星新一筒井康隆小松左京をたまに手に取ることもあった。しかしいつの間にか、また眉村卓のわりと不安な結末をむかえがちな作品に引き込まれていくのだった。

眉村卓の代表作となるとやはり『司政官』に代表される司政官ものか、何度か映像化もされた『ねらわれた学園』『時の旅人』などのジュブナイルな作品群になるのだろう。もちろんそれらも好きで何度も読んでいるのだが、個人的な思い出と強くつながっているのは『不定期エスパー』だったりする。

 

不定期エスパー〈1〉護衛員イシター・ロウ (徳間文庫)

不定期エスパー〈1〉護衛員イシター・ロウ (徳間文庫)

 

 

不安定な超能力者である主人公が戦いながら成長していく物語、というのは短くまとめすぎかと思うが、何度となく苦しい状況に追い込まれてそれでも諦めない主人公イシター・ロウの姿にあこがれを、かっこよさを感じていた。性格的には真面目でどちらかというと融通が利かないほうだが、意志は強く頼りになるいいやつなのである。

この手の物語では主人公は強くヒーロー的な扱いを受けてとかく目立つ存在になりがちだが、『不定期エスパー』の場合むしろ逆に目立たないその他大勢の立場で、そのなかで自分の役割を果たしていくという地味さがある。この地味さはストーリーが進んでも一貫していて、だがしかし退屈さにはつながっていない。一人の青年が揺れ動く歴史の中で翻弄されつつも、自分の力で足を踏み出して未来を開いていく過程を確かめることができる。

先にノベルズ版が出されていたようだが、個人的には書き下ろしの前書きや後書きを読める文庫版をお勧めしたい。表紙のイラストのテイストも、こちらのほうがしっくりくる気がする。

 

自分の好きなものでもどこがどう好きなのかを伝えるのは難しい。思い入れが強ければなおさらのことと感じる。単純に「がんばって、イシターロウ!」と書けば上の文章も一行ですんだかもしれない。いつかあらためて再紹介したいと思う。

 

 

俺とさまよえる方向性再び

うーん、このブログはどこに向かっているのだろうか。前回はですます調にもしてみたが、全体の中では違和感のあるエントリになってしまった気がするし、どうにも一貫性というものがない。いっそ「一貫性のないことを一貫させていく」というスタイルのブログを目指そうかとも考えたりしたが、それも苦労する割に誰も幸せにならないような気がしたのでやめることにした。このブログは『第七観測所』という名前だが、今のところ観測どころではない感じである。まあ仕方ない。こうして迷いながら進んでいくことにしよう。かっこよい姿とはお世辞にも言えないが。

と、これで今日を終わらせるのもなんなのでゲームの話でも書こう。唐突だが、俺がゲームメーカーの中で一番好きなのはナムコである。ナムコバンダイではない。まだゲーム業界に夢と希望があふれていたころ、輝いていたナムコである。マッピーとかゼビウスとかは今でも効果音をメールの着信音にするくらい好きだ。あの時期のポップでセンスの良いゲームデザインと音楽のマッチ具合は大したものだと思う。『ボスコニアン』や『グロブダー』、『バラデューク』など世界観が変わっても「ナムコらしさ」というのは確実にあって、小学生の俺でさえ「これもナムコのゲームか、やってみよう」と思うくらいの安定したクオリティーを保っていた。過去の自社のキャラクターを大事にするところも俺が好きなところだった。ゲームを売ることだけではなく、ゲームをする人たちの気持ちも考えてくれるメーカーだなあというのがナムコの印象だ。

こうして書くとレトロゲームだけが好きなのかと言われるかもしれないが、プレイステーション以降のソフトもけっこう遊んだ。『リッジレーサー』はプレステ本体と同時に買ってやりこんだし、『エースコンバット』シリーズも『ミスタードリラー』も『塊魂』もかなりやった。合間に『ナムコミュージアム』もプレイして昔を懐かしみつつ、おっかなびっくりで『アイドルマスター』もプレイしてそれなりにはまった。『テイルズオブ』シリーズはエターニアくらいまでしかついていけなかったが。

これからのナムコは・・・まあナムコバンダイになって「らしさ」はだいぶ薄れた気もするからそこまで期待はしていないけれど、スイッチとか新しいゲームハードも発売される時代はまだ続いているし、また新しくてちょっと変わっていて面白いゲームを作ってくれることを期待してやまない。いや、『リッジレーサー』の新作でもいいんだけど。『アブノーマルチェック』のリメイクでもいいんだけど・・・。